この本を読むことになったのは、矢貫隆著の「刑場に消ゆ 点訳死刑囚二宮邦彦の罪と罰」を読んだのがきっかけでした。
矢貫隆氏は、自動車雑誌などに記事を書く社会派ルポライターですが、「刑場に消ゆ」も月刊”Navi”に連載されていたものだそうです(ちなみに、氏は現在京都のタクシー運転手に従事しながら取材し、タクシー運転手の現実を”カーグラフィック”誌に連載中です)。
ところで、「刑場に消ゆ」は、二宮という死刑囚が1500冊もの点訳を死刑になるまで続ける顛末を記したものです。
読みながら二宮への共感を禁じ得ず、死刑という罰則に対する疑問も起きました(死刑廃止論者ではありませんが)。
ここまでなら、人は芯からの悪人なぞおらず何かのきっかけで堕ちていく弱い存在なんだなという再認識し、まぁ良い本を読んだなという読後感で終わるはずでした。
ところが、この本の最後で、著者もどう理解してよいのか迷わされた画像の本のことに触れています。
「足音が近づく 死刑囚・小島繁夫の秘密通信」の小島(仮名)は明らかに二宮に違いないと矢貫氏も断言していますが、その余りに拘留中の状況が異なることが理解できないとしているのです。
二宮については彼の手紙と拘置所に関わりのあった複数の人の証言によって明らかにされていますが、小島は殆ど本人の手記(巧妙な手段によって獄外に出されている)のみによって輪郭化されています。
となると、二宮の手紙と小島の手記には共通点があって良いはずなのですが、余りにも異なっているとのことなのです。
書いてある内容もそうですが、書いているトーンも異なるのです。
共通するのは筆跡や書き方の癖です(これを同一人物が書いたものに間違いないと矢貫氏はしています。要するに「足音が…」はフィクションでないと言ってるわけです)。
そうなると、二宮はいわゆる多重人格(解離性同一性障害:DID)なのかもしれないとしています。
ただ、二宮に関わった人からの声からは、小島(同一人物の仮名ですが)の人格は浮かび上がってこないようです。
確かに、死刑が確定すれば多くの人は「これは現実ではないんだ。どこか違う世界のことなんだ」と違った世界か異なった人間に起きていることだと認識したくなるのは当然かもしれません。
その結果、違った人格が形成され現実から逃避しようと試みても不思議ではないでしょう。
ですから、両書にあることはどちらも事実と理解すべきだとは思います。
しかしながら、私居酒屋コーチには、どうしても小島には共感し難いところがあります。
小島の自分中心的な面が強くあるからでしょうか(自己中でない人間なぞいないと思いますが)。
そういう意味では、元々の人格が小島であって、DIDになってからの人格が二宮なのかもしれません。
何れにせよ、「足音が近づく」を読んでこの二宮という死刑囚に関わることが後味悪いものになってしまいました。
しかし、こう言った矛盾や混乱を含んだものが現実というものなのでしょう。
読んだ両書はフィクションではないのですから。
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